七階建てのマンションの屋上、安全のためのフェンスを乗り越えて眺め見る街。
夕暮れを迎えようと長く伸びた影、三月に入ったばかりの風が髪をなぶる。
眩暈がした。
腰から下の力が抜けていく。おもわずその場にへたり込みそうになった。
(飛び降りが一番簡単で成功率が高いんだ・・・・)
本で読み知った事を念仏のように口の中で声にださず繰り返していた。
「どうしたの?跳ばないの?」
突如真横、至近距離から声を掛けられる。
「う、うあわひゃ」
その拍子にそのままペタリと座り込んでしまった。恐る恐る声のした方に顔を向ける。
「こんちは、良い天気だねぇ」
空は曇っていた、今にも泣き出しそうだ。
「どうしたのさ、突然すわりこんじゃってさ?」
声を掛けてきたのは少女だった、僕よりも少し年上くらいだろう。
高校生には見えない、大学生くらいだろうか?
眼にもド派手なオレンジのブルゾン。
同系色のベースボールキャップの中に納まりの悪い髪を無理やりに押しこめている。
履き古したジーンズに鉤裂きの破れ目がいくつも有る、ファションと言うには乱雑に過ぎる印象だ。
建物の縁をバッシュを履いた足が無造作に踏んでいる。
ほんの三センチ横は30mの奈落だ。
そのまましゃがみこんで目線を僕に合わせてきた。
「ン?」ほんの10cm前で物問いたげな瞳に真っ直ぐに見つめられる。
「高いところ、苦手なんだ。高所恐怖症なんだよ!」
吐き捨てるような口ぶりになる。悪いかよ!
とたんに女の顔がニタニタとした笑みになった。
「これから投身自殺しようってのに?」
顔がかあっと熱くなっていた。なんでだよ、ちくしょう!
なんだこの女!なんで僕が死のうとしてるってわかるんだ?!
「わかるよう。だってアタシもソコから跳んだから。」
え?なに言ってんだコイツ。というか誰なんだこの女?
「へっへっへぇ、アタシねぇ、幽霊なのよ。」
沈み始めた太陽を横顔に受けながら、目の前の女は実にアッケラカンと宣言した。
「ユウレイィ?!」少し声が引きつっていた。「そんなバカな!」
「いや、これがさぁ、ホントなんだなぁ。ほら証拠にさ、人魂とか。」
彼女が中空に手を差し伸べると、薄夕闇の中に青とも紫ともつかぬ明かりがふわりと灯る。
彼女が手繰る様に空に手を躍らせれば、人魂(?)は同じようにふらりゆらりと宙に舞う。
「あ、だ、だだだ、あし、ああし足あるし!」
「あ、これ?」ぺチリと自分の足を叩く。
「でも透けるよ?」
言うなり彼女はやおら立ち上がり、フェンスに向き直る。
右手を前に突き出してしてフェンスに向かって進む、何の抵抗も無く彼女の身体はフェンスに吸い込まれてしまう。
「ね?」フェンスから頭だけをにょっきり出して微笑む女。
この時すでに僕の頭は真っ白になっていた。
処理能力の限界突破。オーバーフロー。
ザーっと音を立てて血の気が引いていくのが解る、代わりに背筋を何かが這い登ってくるのも。
「幽霊はぷ、プラズマが。ひ、人魂はメタンガスで・・・・。」
「あー、うん。そうねぇ。アタシバカだからさぁ、難しい事はワカンナイんだけどさ。」
なにやら彼女はニコニコと見守るような笑顔で僕を見ている。
「ユーレイがプラズマだと怖くなくなるわけ?」
幽霊は成仏できない魂の事だ、死んでも消えぬ暗い情念の事だ。
目の前のこの女が死者の魂魄だと言うなら、その構成要素が何だと言うのだ。
プラズマだろうがエクトプラズムだろうが、彷徨う魂にとってどれほどの意味がある?
何かがストンと胃の辺りに落ちた。唐突に目の前の状況を頭が受け入れてしまった。
と同時に、辺りが急に冷え込んできたように感じる。夕闇に沈んでいくマンションの屋上で、僕は金縛りにかかったかの様に目の前の女から視線をはずせなくなっていた。
目離したら最後、何が起こるのか。僕はその事を考えたくは無かった。
「その・・・、幽霊が何のようなんだよ。」
掠れたような声しか出なかった、それでも何も喋らないよりマシだと思えたんだ。
だけど自分で「幽霊」と声に出して言った時、見えない手で心臓をぎゅっと摑まれた気がして後悔した。
「これからホトケさんに成ろうって人が幽霊を怖がるんだねぇ。あ、自殺したら成仏はできないんだっけ。」
再び彼女はニタニタと笑い出した、意地の悪い笑みだった。
もう、頭に血が上ったりはしなかった。
「うふふ、忠告だよ。跳ぶのならソコからではなくて50cm左にずれるといいよ。」
女は僕の足元を指差しながらそう言った。
「ほら、下の駐輪場が見える?このまま跳んだらあそこの屋根の上に落ちて死にきれないよ。」
確かに下には駐輪場の屋根があった。軽合金でできた簡単な物だ。
「アタシもねぇ、ソコから跳んだんだけどさぁ。あの屋根のおかげで即死は免れてねぇ。」
なんでコイツ薄笑いを浮かべてやがんだ?
「救急車で運ばれてる間も苦しくってねぇ、右腕なんかもぐしゃぐしゃでさぁ。」
そういえばこの女、右手は皮のグローブか何かをはめている。
その手を僕の方に差し向ける。
「結局、病院で治療中に死亡するまでに一時間もかかっちゃたよ。」
がしっと女の右手が僕の左腕をつかむ。
「ヒィッ!」
冷たい手だった。血の通う、温もりの有る手ではなかった。そう、とても生きた人の手ではなかった。
「どうしたの、死ぬんでしょう?怖いなら一緒に跳んであげるよ。」
ぐいぐいと引っ張られる、強く引っぱられる。人間とは思えないほどの強い力。
「さあ!さぁ、ほら!」
引き上げられ立ち上がる。バランスを崩し上体が泳ぐ。
眼下には無数の灯が煌く夜景、そして足元には無限量に続くかのような闇。
吹き上がってくる冷たい夜風が耳の奥でごうごうとうなり声を上げる。
耳鳴りの向こうでは、女がいつしか笑っていた。闇に響き渡る大きな声で笑っていた。
その笑い声を聞きながら、僕の意識は闇の底に滑り落ちて行った。
・
「おい、アンタ。そこで何をしている。」
まぶしい光に照らされて、僕は意識を取り戻した。
マンションの屋上のコンクリートの上に寝転がっていたらしい。
身体は冷え切っていて、酷くこわばっていた。
「困るなあんた、何処から入ったの。ここ立ち入り禁止だよ」
辺りはすっかり夜になっていた。僕は見回りに来た夜警に見つかったらしい。
「学生だね、学生証有る?」
僕の様子を見て、訝しげに思いながらも警備員は職務を遂行しようとしている。
僕はすっかりバカバカしくなっていた。
すっかり毒気を抜かれていた、どっちらけた気分になっていた。
自殺しようなんて思ったのがアホらしくなっていた。
ああ、そうさ。
何で僕が死ななきゃならないんだ?
突然笑い出した僕を見て、警備員はギョッとした顔をした。
その様子がまたひどく可笑しかった。
* * *
「たんてー*1さん、タダイマぁ!」
能天気なギンコ*2の声が慎ましやか事務所*3に響き渡った。
と同時に元気よく開いた扉を抜けて、オレンジ色のブルゾンが駆け込んでくる。
「・・・。遅かったな、何処までコーヒーを買いに行ってたんだ?グァテマラか?」
毒をたっぷり塗りつけた声色で皮肉を飛ばす。
「んー、冥土まで?」
取って置きのジョークを言ったみたいな顔で二カッと笑う。
ああそうだ、コイツには皮肉は通じないんだった。オレが悪かったよ。
「じゃあバカはすっかり治ったわけだ」
コーヒーの準備をしながらオレ。ギンコが投げて寄越したキリマンを受け取る。
「やだなぁ、知らないの?バカは死んでも治らないんだぜィ。」
ああそうだろうともさ、この100tバカめ。
ブルゾンを接客用ソファに投げ出したギンコが二人分のカップを持ってくる。
ギンコの右腕は義手だ。精巧に出来ていて、上着を脱がない限りソレとは知れないだろう。
やがて部屋中に引き立てのコーヒー豆の匂いが満ちる。
オレはこの瞬間が好きだ。おそらくギンコも同じに違いない、新しい豆を開ける時には必ず部屋に居るからな。このの点だけは奴とも分かり合えるという物だ(もしかしたらコレだけかも知れないが)
入れたてのコーヒーの湯気をアゴに受ける、暫しのゆったりした空間。
「たんてーさん、人助けというのは気持ちがイイネェ・・・。」
ギンコの顔を盗み見る、地蔵のような顔をしてやがった。
察するにコイツお使いの途中、余計なおせっかいを焼いたらしい。
哀れな。
関り合いになったであろう人物に深く同情し、そして少しだけ救われた気分になった。
この馬鹿にふり回された不幸な人間はオレだけじゃ無いってことだ。
「ああ、そうだな。」
夕刊を眺めながら、オレは低く呟いた。